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第54話 狂気

Author: 月歌
last update Last Updated: 2025-07-03 10:16:30

◆◆◆◆◆

セドリックは恐怖に震えながら、その光景を見つめることしかできなかった。

火かき棒を押し付けられ、床をのたうち回るミア。鼻を突く焦げた肉の臭いと、喉を裂くような悲鳴が室内に満ちていく。

――熱い。痛い。息が詰まる。

頭の奥で、幼い自分の叫び声がこだました。セドリックもまた、父に火かき棒を押し当てられたことがある。鮮明に蘇る記憶に、膝が震え、身体の芯から力が抜けていく。

額から冷たい汗が滴り、指先は痺れたように感覚を失っていた。

ガブリエルは、転がるミアを冷めた目で見下ろしながら、何の感慨もなく火かき棒を床に捨てる。そして、低い声音で言った。

「セドリック」

低く、深く響く声が、暗闇から呼びかけるように耳を打つ。

セドリックは息を呑み、父の方を向いた。ガブリエルの金の瞳は、炎に照らされ妖しく光っている。

「……ち、父上……。」

喉が引きつり、声が掠れる。ガブリエルは、杖を突いたまま一歩踏み出した。

「お前から離縁届を出すことは許さん」

厳格な声が、静寂の中に鋭く響く。

「そんなことをすれば、アシュフォード家の瑕疵を認めることになる」

杖が床を打つ音がやけに響く。

「し、しかし……」

カツン

セドリックは弱々しく反論しかけたが、ガブリエルの杖の音で黙り込む。

「リリアーナを手放す気か?」

瞬間、冷気が背筋を這い上がった。ガブリエルの声は冷ややかに部屋に響く。

「ヴィオレットが王家の血を引いていることは、お前も知っているだろう」

杖の先で床をゆっくりとなぞる。

「私の孫のリリアーナは、その血を引いている」

まるで貴重な宝石を語るような声音だった。

「リリアーナを女当主にと望んだヴィオレットを、生意気には思っていたが……」

一瞬、鼻を鳴らし、軽く嗤う。

「だが孫まで手放すことは、私の想定にはない」

ガブリエルは炎を背に、影を長く引きながら、ゆっくりと歩く。

「リリアーナの夫にと、名乗りを上げている家は何件もある」

沈黙の中、杖を突く音だけが一定の間隔で響く。

「それらの家からも、鉱山開発に投資させている」

淡々と語る口調に、一片の迷いもない。

「私は孫を手放さん」

燐光を帯びた瞳が、セドリックを射抜いた。

「鉱山も、当主の座も!」

炎が揺らぎ、影が壁に広がる。ガブリエルは杖を突き、背筋を伸ばしたまま言い放つ。

「リリアーナの親権をアシュフォード家が握る為には、
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